小学校入学の際、父からまず言われたのは「6年間1日も休むな、皆勤賞をとれ」「兄を見習って勉強しろ」という言葉でした。
休むことを許されず、保育園のあの場面が蘇り、休めない、休むと暴力が来ると怯えたものです。
この言葉は今でもはっきり覚えています。
兄弟は男三人、私は真ん中。
兄と常に比べられ、何かあると「兄のように」と言われるのが当たり前でした。服や道具も兄のお下がりばかりで、新しいものを持つことはほとんどありませんでした。
そんな中、唯一「自分のもの」として心に残っているのは、祖父母が入学祝いに買ってくれた学習机と本革のランドセルです。
机は高さ調節ができ、棚や引き出しも豊富で、あの時の喜びは今でも心に刻まれています。それは、自分が認められ、大切にされていると感じられる瞬間でもありました。
三兄弟の真ん中として育った僕は、日々の小競り合いが日常茶飯事でした。
些細なきっかけで始まる喧嘩の数々
それは食べ物の取り合いから、おもちゃや道具、さらにはテレビのチャンネルやゲームの順番まで。
大した理由ではないのに、いつも誰かと張り合っていたのを覚えています。
まあ、こういう兄弟の喧嘩って、どこの家庭でもある「あるある」なんでしょうけどね。
でも、振り返ると、そんなくだらない争いも今となっては懐かしくて、かけがえのない思い出です。
私は、何が原因というわけでもなく、ただ性格として内向的でした。
七五三の着替えを嫌がって親を困らせたり、家族や親戚以外の人と話すのがどうにも苦手で、よく誰かにぴったりとくっついて安心感を求めているような、そんな子どもだったんです。
人見知りが激しく、どうしても大勢の前で堂々と振る舞うことができませんでした。
そんな私を見て、親は「少しずつでも成長してほしい」と願っていたのでしょう。
だからこそ、手伝いやお使いといった日常の小さな役割をたくさん任せてきました。
でも正直に言うと、僕にはそれがとても怖かったんです。
挑戦してみたい気持ちはあるけれど、失敗したらどうしようと不安が先に立ち、どうしても勇気が出なかったんです。
それでも「怖くてできない」と正直に伝えることは、当時の私にはまだ難しくて、言い訳や嘘でその場をしのごうとしてしまいました。
その結果、父からは叱られることが多くて、ゲンコツを脳天に喰らい、ビンタを受け、外に放り出されたり、ひどい時は、外の物置に閉じ込められたりしました。
夜の外はとても怖かったです。
田舎なので夜は真っ暗で冬は寒くて、お隣さんの家を外からのぞいていた事もたくさんありました。
お隣さん、きっと見て見ぬ振りをしていたと思います。
父ははよく『兄ができるんだからお前もやれ』と言って私に命令してきました。
振り返ってみると、親が寄り添ってくれたり、同情してくれたりすることはほとんどなかったように感じます。
親の育て方はあくまで厳しく、手を差し伸べるというよりも、少し距離を置いて「やってみろ」というスタンスだったのでしょう。
教育のメインは父で母がサポートという感じだったと思います。
あえて厳しく育てる方針だったのかもしれません。
思えば、当時はそんな時代で、親も「強く育てることが愛情だ」と考えていたのでしょう。
楽しい日もあったでしょうけれど、痛くて苦しくて辛くてというマイナスの思い出が強いです。
コメント